――ここまでは、平均的な「幸せ」だったのだろう。
裕福ではないが貧しい家庭でもない。望むものは人並みに与えられたし、高望みをすれば、両親はきちんと叱ってくれた。
よくできた一般家庭だった。
父さんと母さん、可愛い妹。時々、言い争うこともあるが、とても仲の良い家族で。それを他人が言う「幸せ」に当てはめるなら、僕は大層幸せだった。

しあわせだった。



Answer, "sweet one-room"



狭い部屋。赤い部屋。
三人が生きていた部屋は、今は二人の呼吸しか聞こえない。椅子に縛り付けた彼は、いつからか意識を失っている。……泣いて叫んでうるさかったから、丁度いい。彼から視線を逸らし、足元に転がした死体に目をやった。

「……ねえ、紗季。
僕は君のこと、とても可愛い妹だと思ってたよ。憎さなんてなかった。これは本当。紗季の我儘なら、何でも聞いてあげただろ?僕も、父さんと母さんも。
……少しだけ、羨ましかったんだ。だから、君が一番幸せだと感じるものを、一番大好きだと言える人を、奪ってみたかったんだよ」

妹が、いろんな場所から血を流して死んでいる。
綺麗だった長い髪は、僕がほとんど切り落とした。床に散ったそれが血と混じり合って、汚く見える。後の掃除が大変そうだ。

「……さて」

妹から取り上げた彼を、どうしようかと思考する。
いざ妹を殺してみると、なんとなく気持ちが晴れた。それまで抱えていたものが嘘みたいに消えていき、この後のことなんかどうでもよくなった。妹から大切なものを奪って、その後はすぐに破棄しようと思っていたけれど。
……今日はもう疲れたし、やめよう。片付けも大変そうだし。

「優人くん」

座ったままの彼は目を覚まさない。
血や涙で汚れた顔はとても汚い。目を覚ます前に、シャワー室にでも入れておこう。

「……」

……なぜ自分は、こんなことをしているのだろう。
考えそうになり、思考を停止させた。結果に至る衝動の理由は、分かりきっている。考えるだけ無駄だ。
後悔はしていない、そう自分に言い聞かせ、明日のことを考えた。


・・・


飽きたら殺そう。
……そう考えていた時期が懐かしい。
いざ彼を飼ってみると、手間がかかってそれどころじゃなくなった。
子どものように泣き叫び、目を離せばすぐに死のうとした。動けない様縛り付けていたが、食事やトイレの世話をする必要があり、片時も離れられない。
そんな日が何日も続き、1年を過ぎる頃にやっと落ち着きを見せ始めた。
自殺をしようとする彼に、様々な方法で精神的苦痛を与えた結果、自分で自分を傷つけることはしなくなった。
ムチの後には甘い飴を与え、僕へ依存するよう手なずけた。暴力的な夫や妻が社会問題となっているが、その要領だ。痛みと優しさ、僕だけしかいない、君だけしかいない……言葉を、行動を、洗脳するかのように刷り込んでいく。
その結果、僕たちの関係性はおかしな方向へと曲がってしまった。
彼の根本には、「大切な人を奪った人間を殺す」という気持ちがいつまでも消えない。だから事あるごとに僕を殺そうとする。けれど、いつしかその行動は習慣となり、必須となり、日常へと変わった。僕を傷つけることが、彼の普通なのだ。
僕の方は、彼の行動に対して仕返しをしていただけだ。彼をいたぶるのが好きだとか、そういった気持ちは一切なかった。間違って彼を殺したとしても、もともと殺すつもりだったのだ、後悔はしない。はずだった。
いつからか、彼の苦痛は僕を楽しませる一つとなり、手放すには惜しいものへと変わった。

「ただいま~」

仕事終わり。玄関の扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
珍しいことではないが、嫌な予感が胸をよぎる。足早にリビングへと向かい、電気をつけたところで、現状にため息を漏らした。

「……優人」

部屋の真ん中に座り込んでいた優人が、いつもの顔でこちらを見上げた。
彼の傍にしゃがみ込み、視線を合わせる。子供をあやす様に頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を閉じた。

「ただいま、優人。今日は何してたの?」
「……夕飯、作らないと」
「いいよ。今日はお弁当買ってきたから。……なんか匂うんだけど、何これ」

彼が広げていた紙を一枚拾い上げる。
人が二人、描かれていた。
まるで幼稚園児が描いたような、酷く幼稚な丸人間が二人。一人は僕で、もう一人は優人自身を表しているようだ。二人とも笑った顔で、片手に包丁、片手にビンのようなものを持っている。
真っ赤に着色されたその絵は乾いておらず、紙を持つ手にまとわりついた。

「……ケチャップの匂いがする、優人」
「……」
「優人……はぁ。君の手もベタベタじゃないか。ほら、ご飯食べる前に洗っておいで」
「……怒ってるのか。また痛いことするのか?」
「しないよ。倍返しにされるからね。ほら、手洗って」
「……うん」

洗面所へと走って行く彼を見送り、ため息をつく。
……彼は時折、子供になる。
壁いっぱいに落書きしたり、買い与えた絵本を好き好んで読んだり。精神的ストレスが彼をこうしてしまったのだ。こんな行動を、彼自身、異常だと認識できていない。出来なくなってしまった。

「一樹」
「おかえり。僕も手を洗ってくるから、お弁当、温めててくれる?」
「分かった」
「食べ終わったら部屋の片づけだね。お絵かきするのはいいけど、食べ物を使うのはダメ。分かった?」
「分かってる。子ども扱いするな」
「はいはい」

自分が正常だと思っている彼は、僕を異常者だと言う。
僕はそれを自覚している。妹を殺すなんて、妹の彼氏を飼い殺すなんて、頭がおかしい。大丈夫、自覚している。
僕自身、彼の異常性を指摘するつもりはない。下手に突けば、彼の精神がまた不安定になるかもしれないからだ。また最初からやり直すのは、さすがに骨が折れる。衝動的に殺してしまうかもしれない。……いや、それはないか。
衝動で彼を殺すつもりはない。そんな勿体ないこと、今更できない。
けど。
お互いがお互いに与えた傷は、日々、着実に体を蝕んでいる。
長生きは出来ないだろうなぁと、過去、優人に切り付けられた腹の傷をさすった。
……どうせ、こんな生活、永くは続かない。だったらそろそろ……。

「一樹。準備できた」
「……うん、ありがと」

けれど願わくば、こんな日々が少しでも長く続けばいいな、と。
思ってしまう自分が居る。



・・・



妹が好きだった。
もちろんそれは、家族として。大切な妹だった。我儘のすべてを叶えてやりたいと思うほどに。
それがどうして、僕は、どこで、間違えたのだろう。

『お兄ちゃん』

殺して、奪って、ぽっかりと空いた胸の穴に、黒い、どろどろとした感情が流れ込む。
気持ち悪いその黒を発散させるため、手元に残った彼に、暴力を振るう。
……なんだかんだ理由を付けて、結局自分は、彼に八つ当たりをしていただけなのだ。
訳の分からない感情に、後悔に、罪悪感に、押しつぶされてしまわないように。自身の安定を保つために。

「それは違う」
「ッ!!」

割り込んできた彼の声に、ハッとして目を覚ます。
ベッドサイドの弱い明かりが、こちらを見下ろす彼の顔を照らしていた。

「……優、人……?」
「お前が俺を傷つけるのは、俺がお前を傷つけるからだ。お互い様だろ。
……アイツへの罪悪感なんかで、俺から目を背けるな」
「……あれ……?僕、今、何を……」
「……寝言だったなら別にいい」
「優人?」
「寝ろ。二度と起きるな、死ね」
「……辛辣だなぁ」

笑いながら両手を広げると、不服そうな顔をしつつも、腕の中にすっぽりと収まった。
冷たくなった彼の体を、温めるように抱きしめる。

「こうしてると恋人みたいだね」
「気持ち悪いことを言うな」
「うん、ごめん」
「……寝ぼけてる、なら。仕方ないから、付き合ってやる」
「……うん、じゃあ今だけ」

恋人みたいに、優しく、包み込むように。
同じ匂いを共有しているはずなのに、彼の髪からは、体からは、自身にはない匂いがする。
まるで、太陽みたいな。
日の当たらないこんな部屋で、晴れた日の、太陽の光をいっぱいに浴びたかのような、優しい匂い。
その優しさが、過去に、沁みていく。

「……ねえ優人」
「何」
「僕は後悔してるんだろうか」
「……。それを俺に聞くのか」
「僕は、君を傷つけることしかできないから」
「…………お前は、最低だ」

彼の体温が離れていく。
抱きしめていた腕はベッドへと落ち、優人は再び僕を見下ろしている。
彼がどんな表情を浮かべているのか確認しようと、顔を向けた瞬間、視界は暗闇に覆われた。

「優人?」

今度は、僕が彼に抱きしめられる。
彼の胸に顔を埋めるように抱きしめられ、身動きが取れない。かろうじて見上げた彼の顔は、子供を見守る親のような、優しい顔だった。

「お前は人の気持なんか考えない最低野郎だ」
「う、うん。ごめんなさい」
「最低な奴だから、」
「……うん」
「俺が殺す」
「……嬉しそうに言わないでよ」
「明日は刺す。包丁で、背後から」
「うーん。背中は刺さりにくいよ、骨が多いし。幅の細い……ナイフとかがいいかな」
「そうか」
「背後から刺すより、抱きしめられながらの方がいいなぁ。死ぬときは優人の顔を見てたいよ」
「分かった」

数日間は接近してくる彼に注意しよう。

「……はは。なんか、考えてたこと、どうでもよくなった」
「そうか。なら早く寝ろ」
「ありがとう、優人。……おやすみ」
「……おやすみ」

きっかけとか、現状とか。
それは異状で、おかしな状況でしかないけれど。
彼と築いてきた今が続くなら、もう、何でもいい気がした。
明日も、明後日も、その次も。
死ぬまで、繰り返し、彼を殺すように傷つける。彼に、何度も殺されかける。……僕らは、そんな形で出来上がったんだ。変わることなく続けばいい。

――ずっとずっと、永遠に、続けばいい。

彼に出会う前の、平均的な幸せなんて、つまらない日常でしかなかったのだ。
これでよかったんだ。

そう、よかった。
妹を殺して、正解だったんだ!

「……ふふ……」
「一樹……ッ、とっとと寝ろ!!」
「痛っ」



・・・



僕は毎日が、幸せでした。
僕は毎日が、とても幸せでした。

――最期のその時、僕はとても幸せでした。
最期のその時、僕はふと、ここから先が本当に幸せなのかと考えました。



・・・



永遠とも思える暗闇は、突然にして光に変わった。
眩しさに閉じた目を再び開けた時、目の前に立つ人物を見て、これは夢なのだと確信した。

「お兄ちゃん」
「……紗季」
「私、別に怒ってないよ。むしろね、嬉しいの」
「嬉しい?」
「うん。お兄ちゃんが私に感情を向けてくれたこと」

妹が笑った。
生前見た、屈託のない笑顔だった。

「……お兄ちゃんはいいお兄ちゃんだった。けれど、それだけ。優しくて、我儘は何でも聞いてくれて、困ったときは助けてくれたよね。でも、それだけ。お兄ちゃんは、私も、お父さんも、お母さんも、愛してはいなかった」
「……そんなこと」
「それが普通だから、それが一般的だから。……それだけの理由で、お兄ちゃんを演じてたんだよね?
空っぽの、ロボットみたいな、お兄ちゃん」
「違う、僕は、」
「でも私を、初めて私を憎いと、疎ましいと思ってくれた!!殺してくれた!!!!殺意!!殺意!!!それは、愛情と同じ事!!愛情は殺意!!憎しみ!!あぁ、やっとお兄ちゃんが私を見てくれた!私を、私を、私を殺して、私を、愛して、私を!!!!!!」
「ッ止めろ!!!!」

壊れたように笑う妹を、突き飛ばす。
倒れ込んでなお笑う妹を、何度も踏みつける。
血を吐いて笑う妹を、何度も切り付ける。
笑う妹を、笑う妹を、殺す、殺す。
殺す。

「…………、あれ……?」

刃物なんて、いつの間に持ってたんだっけ……?
……。
…………。

「……どうでもいいか」

笑わなくなった妹の体を踏みつける。
……夢でも妹を殺してしまった。
けれどもう、罪悪感なんてない。胸に穴が開くことも、言い表せない感情に苛まれることも、無い。

「優人……」

会いたい人。夢でも、現実でも、ずっと一緒に居たい人。
優人。
僕の声は暗闇に消えていく。眩しい程に溢れていた光は、どこにもない。
きっとこの声は、彼に届かないのだろう。
……それでいい。届かなくたって構わない。彼なら絶対に、僕を見つけてくれるハズだから。

「……お、に……ちゃ……」
「……」

足元を這う水音。
夢だというのに、あの日の匂いをそのままに、赤く塗れた手が僕の足首を掴んだ。
そういえば、優人もこんな感じで両手を真っ赤に汚してたっけ。あの時はケチャップでの大惨事だったけど。あれはいつの日のことだったか。
あの日、彼が描いた絵は、汚れの酷い物を除いて、全て保管してある。額縁に入れて飾ろうかとも考えたが、シャイな優人がブチ切れそうだったからやめた。
子どもみたいで可愛かったなぁ……。今思い出しても、微笑ましい。

「それなのに……、お前は」

”両手を洗ってきておいで、さあ晩御飯の時間だよ。”
……そういうセリフが出てこない汚さだ。あぁ、僕がやったんだっけ。大きなゴミ箱でもあれば、さっさと放り込んでしまうのに。
優人がこれを見たら、なんて言うだろう。僕を嫌悪するだろうか?この人殺し、と、僕を罵るだろうか?
――なんて。
そんな不安、どこにもない。優人はもう、僕しか見えないはずだから。

「早く来ないかなぁ、優人」

あぁ、でも、自分で自分を傷つけないようにと散々教えたんだった。ここにきて弊害になるとは……。
……本当なら。
こんなところに来るべきじゃないと、言わなければならないのだろう。僕の異常性から、彼を解放しなければならないのだろう。彼の家族も、きっと心配しているはずだ。元の世界に戻してあげるべきだ。
けれど、果たしてそれが、優人の幸せに繋がるのだろうか?
優人は、僕が居なくても生きていけるのか?
……生きていけるはずがない。だって、僕がそうであるように、君にも僕が必要だ。

「そうだよね?優人」

返事はない。
ここにはまだ、彼はいない。
けれど答えは分かり切っている。



――さあ、名前を呼んでくれ。
僕が振り向いたその先に、必ず君が居るのだと、僕は信じて疑わない。
そうして今度こそ、君にこの言葉を伝えよう。

「僕は、君のことが……――」



Answer, "sweet one-room"

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