ふと、彼の声が聞こえた気がした。
いつまでも褪せないその声に、笑顔に、別れの言葉が言えなくなった。



Another side, "sweet one-room"



新しく就職した職場は、人間関係こそ希薄なものだったが、就業環境は最高によかった。
いわゆるホワイト企業だ。
残業も必要なときだけ、ちゃんと手当てがつく。有給も普通にとれる。手取りもそれなりにいい。上司が威張ったりしない、誰もが憧れる職場。
そこで俺は、ある先輩に指導してもらうようになった。

「おはようございます、先輩」
「おはよう。昨日の晩に取引先からメール来てたよ。取り急ぎ返信しといたから、後で確認しておいてね」
「す、すいません!ありがとうございます……!」

慌てて頭を下げる。すると、子供をあやすかのように頭を軽く叩かれた。

「あそこの担当は面倒な人だから気を付けて。僕なんか、何度もクレーム入れられたし」
「えええ……それで先輩は、大丈夫だったんですか?」
「相手がちょっとした有名人だからさ、皆理解してるんだよ。今、この社内で、君は皆に”ご愁傷様”って思われてるよ」
「えええええ!?」
「あはは、何事も経験だよね。頑張れ~」

隣に座る先輩は、いつだって優しく笑う。怒っている顔は、今まで一度も見たことない。
他の先輩に聞いてみても、彼はいつも笑ってて、不機嫌や怒りなどと言った感情は持っていないとまで言われている。
とはいえ、ミスをすれば指摘してくれるし、後のフォローも欠かさない。新人にとって、これ以上の先輩は居ない。まさに理想の先輩だった。

「……あれ?先輩、手、怪我したんですか?」

ふと、先輩の腕が包帯巻きになっていたことに気付く。
よく見ると、真っ白な包帯にはうっすらと血が滲んでいた。

「あぁ、昨日ね。飼い猫にツメをたてられて」
「凶暴なんですね。つか、そんな大ケガするんですか、猫の爪って」
「ちゃんと予防してれば怪我はしないよ。凶暴だけど甘えてくれるし、可愛いんだ」
「へー。今度、写真とか見せてくださいよ。俺、結構動物好きなんですよねー」
「そうなんだ?意外~。まぁ、写真は見せないけど。勿体ないし」
「親バカすぎでしょ!!」

先輩が笑って、俺も笑う。
それは何気ない会話の一つで、俺自身、数日後には会話の内容を忘れることになる。
思い出すのは、ずっと先の話。


・・・


「……先輩。顔色、悪いですね」

会社に勤め始めて半年。
先輩から教わることはほとんどなくなり、たどたどしさはあるものの、やっと一人で仕事ができるようになった頃。日に日に先輩の顔色が悪くなっていることに気が付いた。

「寝不足だからかな」
「真っ青ですよ。早退した方がいいんじゃ……」
「家に帰りたいのはやまやまだけどね。可愛い子が待ってるし。でも気分的には仕事に勤しみたいんだよねー。バリバリ働くぞ~、って感じ」
「……大丈夫ですか、本当に」
「平気平気。ありがとね」

いつもと変わらない笑顔で先輩は笑うが、俺だけじゃない、周りの誰もが先輩の不調に気づいているようだった。
そんな日が何日も続いて、ほんの少し顔色が戻って。もう大丈夫だと安心した矢先に、また青白い顔で出勤してくる。顔色は悪いものの、本人の「大丈夫」だという主張と、普段と何ら変わらない仕事っぷりに、やがて周りは声掛けをしなくなった。

「寝不足で貧血気味なんだよ。だから平気」

昼下がり、遅めの昼食を二人で取る。
会社の最上階には広々とした食堂があり、暖かい日は外のガーデンスペースで食事することもできる。が、女の子達のお気に入りスペースと化しているため、男はなかなか入りずらい。
食堂内、カウンター席の目の前に広がるビル群を見下ろしながら、お気に入りの定食に箸をつける。
隣に座る先輩は、うどんの麺が伸びるのをのんびりと待っていた。

「ふやけたぐらいが美味しいんだよ。あんまり噛まなくて済むし」
「年寄りくさいですよ、先輩」
「学生の頃、給食で出たうどんが好きだったな~。麺がスープを全部吸ってて、でも、味が染みててすごく美味しかった」
「あー、それは分かるかも」

あの何とも言えない味と触感が好きだった。試しに家で作ろうともしたが、何度やってもうまくいかなかった。味もさることながら、独特のふやけ具合が再現できない。今では味わうことのできない幻の逸品だ。

「なかなか同意が得られなくてさ、喧嘩しちゃうんだよ」
「誰とですか?」
「うちの猫」
「……?」

……時々、先輩の話に出てくる「飼い猫」は、人間味を感じさせる。
何も考えずに聞いていると、動物の話に思えなくなるのだ。それほどに、彼の飼い猫に対する溺愛ぶりは、どこか違和感を感じてしまう。……俺自身、動物を飼った経験がないため、未経験者には知り得ない感覚があるのだろう。そう思い、彼の話には耳を傾けるだけに徹していた。

「ありがとね」
「え?どうしたんですか、いきなり」
「いや。なんとなく。僕の話を飽きもせず聞いてくれるからさ、感謝しておこうかなって」
「?
先輩の話だったら、誰だって耳を傾けるでしょう?友達多そうだし」
「そうでもないよ。社会人になってからは、それまでの友達とは疎遠になったし」

その気持ちはなんとなく分かる気がする。
大学を卒業し、いざ働き始めると、連絡を取り合う相手がどんどんと減っていった。都合が合わないだとか忙しいだとか理由を付けて、お互いがなんとなく距離を広げていく感じ。その内にまったく連絡を取らなくなって、いつの間にか消えている。そうして同窓会とか、そういう席で「久しぶり!元気だった?」なんて言いあうんだ。
勿論、相も変わらず連絡を取り合う友人はちゃんといる。けれど、学生の頃に比べれば頻度はどんどんと減っている。

「ごめん、なんかしんみりさせちゃった?」
「いえ。学生の頃の友達、元気かなぁって思ってました。大人になると疎遠になりますよね」
「そうだね。……あまり近すぎても、しんどくなるだけだし。丁度いいのかもしれない」

先輩からそんな言葉が出るとは思わなかった。から、驚いた。
決してマイナスの言葉なんかじゃない、正論だ。だけど、先輩でもそんなことを思うのだと知り、なんとなく安心した。

「先輩も人の子なんですね……」
「ん?あれ?何の話だっけ?」
「他愛もない話です。うどん、かなり伸びてません?」
「おっと。いただきます」

慌ててうどんを食べ始めるその姿が微笑ましい。
先輩は俺にとって、全てにおいての先輩なのに、こういう姿を見ている時だけは幼い子供のように可愛く見える。
……いや、別に恋愛感情を抱いてるとかそういうのじゃなくて。単に、可愛い人だなぁと思うだけだ。多分、女の子が言う「ギャップ萌え」とかそういう類。他意はない。
ただなんとなく、気になってしまう。
いつも顔色が悪いから、心配なのかもしれない。ある日突然亡くなりました……なんて不謹慎な冗談だが、先輩相手だと現実味があり過ぎて笑えない。
……さすがに考えすぎか。
モヤモヤとした思考を打ち消して、食べかけだった目の前の丼に箸を突っ込む。冷めてしまった米を飲み込みながら、意識を午後の仕事へと傾けた。


・・・


「ごめん。今日は早退するね」

先輩が早退するのは、初めてだった。
今日の先輩は、どこも悪そうには見えない。けれど、どこか落ち着かない様子だ。上司にどう説明したのかは分からないが、先輩にはすんなりと早退許可がおりた。昼食に入るタイミングだった俺は、先輩と並んで会社を出た。

「体調、どこか悪いんですか?」
「僕じゃないんだけど、そんなところ。なんとなくね、今日は早く帰らないといけない気がするんだ」
「あ。もしかして、飼い猫が病気とか?」
「……うん。僕のせいなんだけどね。分かってるのに、ついそうしてしまうんだ。いつも」
「……先輩?」
「……嫌だな……まだ……」
「先輩、……!」

……一瞬、いつも笑っている先輩の顔が、酷くゆがんだように見えた。
しかし次の瞬間には、跡形もなく消え去っていた。気のせいなのだと、思い知らせるように。
うるさく響く心臓を押さえながら、思考をリセットするように頭を振る。改めて見上げた先輩は、少し困った表情を浮かべていた。

「大丈夫?具合悪い?」
「違いますよ。……えっと、何の話でしたっけ」
「……他愛もない話だったよ」

笑って先を歩く先輩に、何か声を掛けないといけない気がした。
けれど言葉は出てこない。
咄嗟に話しかけようと息を吸い込んだ瞬間、携帯の着信が鳴り響いた。

「げっ……部長からだ。俺、何かやらかしたかな」
「んー、大丈夫だと思うけど。それじゃ、僕はそろそろ行くね」
「あ……はい。気を付けて」
「うん、じゃあね」

先輩との会話を惜しみながらも、鳴り止まない携帯の通話ボタンを押した。
……お叱りか、はたまた、緊急の案件か。どちらにせよ、実に好ましくない。上司からの電話なんて、自分の中では、厄介なイメージでしかないのだ。嫌々と相手の声に耳を傾ければ、けれど以外にも、普段通りののんびりとした声が聞こえたきた。

『お前、アイツと一緒に会社出たろ。今、近くに居るか?』
「先輩ですか?……いえ、たった今見送ったところです」
『はぁ……そうか。悪いけどお前、一度戻って来てくれないか。アイツに渡しておきたい資料を届けてほしいんだが』
「えぇー……」
『その分昼休みは長くとってやる。ダッシュで戻ってこい』

……無茶を言いやがるぜ。
イエスの返答以外受け付けません、とでも言うように、用件のみで切れてしまった電話を、呆然と眺める。気分的には、腹が減って仕方がない。すぐにでもどこかの店に入りたいぐらい、腹が減った。が、上司の命令を無視する訳にはいかない。
思わずため息を漏らしながら、会社へと引き返すことにした。



・・・



「随分早かったな」
「会社出たとこで先輩と話してたんで。……それで、先輩に渡す資料って」
「あぁ、そこの封筒を持って行ってくれ。アイツの家はここから10分ほどだから。これ住所な」

手渡された住所のメモを見て、意外にも近くに住んでいたことを、初めて知った。
車で10分程の距離かと思えば、徒歩で行ける驚きの近さだ。
そういえば、先輩はいつも徒歩で出勤していたっけ。てっきり、近くの駅で電車を降りて、そこから徒歩で出勤しているものだと思っていた。

「月曜までに目を通すように伝えてくれ」
「はぁ、分かりました。それにしても先輩……大丈夫ですかね。今日もしんどそうだったし」
「俺も気になってるんだけどな……何聞いても大丈夫としか言わねぇんだよ。だから、様子を見てきてほしいんだ。資料はそのついで。……アイツ、死にそうな顔してたろ」
「へ?……いつもより顔色は良かったと思いますけど」
「お前、一緒に居すぎて感覚が麻痺してるんじゃないか?ヘラヘラしてたが、真っ青だったろ。
それに、早退理由を言わずに帰った。一応、体調不良ってことにしたが、理由を聞いても”お願いします”としか言いやがらない。極め付けはあれだ」
「……あ」

上司が指さす先輩の机には、通勤用の鞄がそのまま置いてあった。

「生存確認ついでに、届けてやってくれ」
「……本当に、大丈夫ですかね。途中で行き倒れてたりとか……」
「その確認だ、行って来い」
「はーい」

中身の詰まった鞄を片手に、再び会社の外へ出た。
……少し目を離した隙に、雲行きが怪しくなっている。青空の所々を雲が覆い、遠くの方から黒い雲が迫ってきている。往復の間に雨が降ることはないだろうが、仕事終わりは注意した方がいいかもしれない。先輩の家に行った帰りに、コンビニで傘買って帰ろう。
大通りから脇の小道に入ると、多くのマンションが立ち並ぶエリアへと風景が変わった。高級住宅街、とまではいかないが、今にも崩れそうなアパートなどはひとつもない。一見して、自分でも借りられそうなレベルの物件がほとんどだが、立地条件を考えると、上乗せ分がかなりありそうだ。

「オシャレ感半端ねぇなー」

メモに記されたマンションへとたどり着き、思わず感嘆の言葉をもらす。
これがデザイナーズマンションってやつか……。
コンクリート打ちっぱなしのシンプルな外壁に、規則的に並ぶ大小の窓。ベランダの柵までもがデザインされているらしく、俺のアパートとは大違いだ。
……俺も、さりげなくこういう場所に住むような男だったら、もっとモテていたかもしれない……。頑張って働こ。
広いエントランスを抜けて、目的の階へと階段を登っていく。無機質なドアをいくつか通り過ぎ、廊下の突き当り、唯一表札のかかっていないドアの前で足を止めた。

「ここ……だよな?」

表札はかかってないが、ドア番号を見る限りでは違いない。
左手の鞄を持ち直し、少し緊張しながらもインターホンへと手を伸ばした。

――瞬間。

鈍い音が、ドアの向こうから響いた。
突然の音に、思わず鞄を落としそうになる。無意識に後ずさった足が、小さく震えていた。
……大きな物が倒れたかのような、音。ドアの向こう、すぐ近くから。
例えば…………人が倒れたかのような。
そんなハズは、と気持ちを落ち着かせながらも、最悪の事態を考える。”行き倒れなんて笑えない”、上司と交わした言葉をこんな時に思い出した。
焦る気持ちで、何度かインターホンを鳴らした。が、反応はない。中からは、何も聞こえない。

「そう、だ、携帯……!!」

スマホを取り出し、彼の番号へと発信する。
数秒後、家の中から微かに着信音が響いてきた。

「……んで、出ないんだよ……!」

いや、考えすぎだ、大丈夫。
お手洗いに行ってるとか、手が離せないとか、そういうやつだ。
……けど、万が一に先輩が倒れていたら。さっきの音が、先輩の倒れる音だったなら。

「先輩!!」

不安にドアを何度も叩く。携帯の発信はそのままに、インターホンを鳴らし続けた。

「……救急車……、いや、まずは確認して……!どうすれば……ッ」

混乱する頭で、必死に思考を巡らせる。
まずは確認をとらないと。このドアを開けて、早く、確認を。
エントランスに警備室があったはずだ、警備員なら鍵を持ってる……のか?いや、とにかく行って話をしないと。
持っていた鞄をその場に投げ置き、慌てて来た道を駆け戻る。
一階の警備室では、常駐の警備員がぼんやりと監視カメラを眺めていた。

「すいません!!」

警備員の背中に声を掛けながら、隔たりであるガラスの窓を何度も叩く。
慌てた様子で振り向いた中年の警備員は、俺の雰囲気を察し、すぐに警備室から出てきてくれた。

「鍵を、開けてほしいんです……!中で先輩が倒れてるかもしれなくて!!早く!!!」


・・・


じゃあね。
彼のその言葉に、「また明日」は無かった。


・・・


――数年前に見た光景は、今だに忘れられない。
全国的なニュースにもなったそうだが、その時の俺はテレビなんて見ていなかった。
しばらく会社を休んだのは、精神的な問題ではなく、報道の人間から逃れるため……という理由の方が大きかった。

「先輩、どうしたんですか?ぼーっとして」

何の関係もないニュースを眺めながら、隣の声に、適当な返事を返す。
凶悪な殺人事件の次は、放火事件。放火の次は、詐欺事件。目まぐるしく紹介されていくニュースに、何も知らないコメンテーターが好き勝手に自分の意見を述べていく。こういうの、すごく嫌いだ。

「先輩!」
「……ビックリした……。なんだよ、大声出して」
「ぼーっとしないで、さっさと食ったらどうですか。麺、伸びてますよ」
「あー……」

後輩に指摘され、店に置いてあったテレビから、手元へと視線を戻す。
冷めてしまったうどんの麺は、ふやけて底に沈んでいた。
……あの人なら、嬉々としてこれを食べるんだろう。笑いながら、子供のように無邪気に。
俺が箸を置いたのを合図に、後輩と共に店を出た。時間つぶしにコンビニに寄り、通いなれた会社へと戻る。
あの時居た同僚や上司はすっかり顔を変え、当時を知る人間は、社内にほとんど居なくなった。何かと世話焼きだった上司も、訳の分からない責任を負わされて辞めてしまった。今では偉そうなハゲが、皆の反感を買いながら、それに気づくことないタフな精神で指示を下している。
辞めることなくここまで続けてきたのは、なんとなく、忘れることを恐れたからだ。

あの日見た景色。
ドアを開けた瞬間の、噎せ返るような血の臭い。
真っ赤な床に倒れた先輩は、もう、息をしていなかった。
大事なものを守るかのように、ただ一人の青年を抱きしめて、眠るように死んでいた。
……見せたことのない、安らかな微笑みで。

きっと何年経っても、あの日のことは忘れないだろう。
けれど、忘れることもある。
例えば、他愛もない話。確かに言葉を交わしたはずなのに、どんな話をしていたかは、ほとんど思い出せない。
彼と過ごした時間が、どんどんと記憶から消えていく。
なんとなく、それは嫌だと。
そう思い、会社を辞めることを躊躇った。多くの時間を過ごした場所だったから。
今では俺が先輩になり、後輩に仕事を教える立場になった。もう教えられる立場ではないのだと、そう思うと感慨深い。

「先輩、例の会社にメール送りたいんですけど、確認お願いします」
「あぁ、分かった。……相手先の担当が細かい奴だったよな、これ」
「そうなんですよ!一々揚げ足取ってクレームにしようとしてくるんです!メール送るのも気が気じゃなくて」
「ご愁傷様。ま、何事も経験だ。……オッケー、これで送っても問題ない」
「うう……ありがとうございます……」

目に見えて落胆した後輩の肩を叩き、自分の席へと戻る。その間、ハゲた上司が鋭い目つきでこちらを見ていた。人の粗を探す暇があるならば、仕事をしろこのハゲ。……なんて、直に言ってみたい。

『あはは、何事も経験だよね。頑張れ~』

能天気な声が聞こえてくる。
隣で笑いながら、励ましてくれる。
緊張感とはまるで無縁な彼の雰囲気に、思わず笑みがこぼれてしまう。
……できれば、もう少しだけ長く、彼と仕事をしてみたかった。
彼が居た頃のメンバーで、もう少し長く。
それを一瞬にして壊したのは彼だったが、俺自身、先輩に対して恨みつらみの感情は持っていない。
それどころか。

「……いや、まさかな」

忘れないようにと考えるほど、どんどんと深みに嵌まっていく。
まるで、呪いのように。
記憶が薄れるどころか、どんどんと刻みつけられていく。
呪い。
笑った顔、困った顔、楽しそうな顔、安らかな死に顔。
消えない。
消えてくれない。

…………消したくない。


・・・


彼の言う”猫”は、彼が死んで間もなく、病院で死んだ。
猫の姿を見たのは、あの日きりだ。お見舞いする理由はなかったし、行ったところで面会謝絶だっただろう。
体が回復することなく病死したと聞いたが、自殺したとの噂もあって、真実は定かでない。本当に自殺したのなら、病院の管理不足だ。決して公にはしないだろう。

あの日、最後に言葉を交わした時。
「また明日」と声を掛ければ、結果は変わっていただろうか。
何の意味が無かったとしても、そうしておけばよかった。

大切な人との終わりより、”明日”を選んでほしかった。
いつもみたいに笑って、冗談を言い合うような明日。
それが先輩の本心じゃ無かったとしても、俺にとってはそんな日々こそが本物だったから。

また明日。
また明日。
また明日。

もう、そんな日は来ないのだと、知っている。
それなのに俺はまだ、最後の言葉が言えずにいる。


――さよなら、先輩。安らかに。

back
inserted by FC2 system